2004年9月12日日曜日

高コスト・高利潤・高価格の日本農業(立花隆)


日米農業の生産性格差=国際競争力を失った高コスト・高利潤・高価格の日本農業(立花隆)


立花隆『農協』第8章は、日本農業を国際的視野のもとにとらえ直す。日本農業はなぜ、どれだけ国際競争力を失ってしまったのか。驚くべき事実が浮き彫りになる。

抜き書き:
  1. アメリカの巨大な農業は、わずか270万の農場で営まれている。農場の9割は家族経営。ところが日本の農家戸数は480万戸。アメリカの27分の一の耕地、500分の一の牧草地にアメリカの1.8倍の農家がひしめき合っている。
  2. 生産基盤においてこれだけの差がある上に、アメリカは、労働生産性が非常に高い。アメリカのコメの生産労働時間は、10アール当たり2〜2.5時 間(日本は72時間)。小麦は10アール当たり0.7時間(日本は22.6時間で32倍)。肉牛肥育労働時間は生体重100キロ当たり1.3時間(日本は 16.5時間で13倍)。
  3. 機械化がアメリカの方が合計では進んでいるが、単位面積当たりの馬力で行くと、驚くべきことには日本の方がアメリカよりトラクター普及率が高い。 耕地1ヘクタール当たり、アメリカは1.3馬力に対して日本は5馬力で4倍。大型農機具全体への年間投資額もアメリカは一戸当たり47万円に対し日本は 18万円。戸当たり絶対額では日本の方が安いが、経営規模が30分の一であることを考えれば、とてつもない過大投資となっている。1ヘクタール当たりの装 備率は日本は100万円に及んでいるが、アメリカはその13分の1である。
  4. これだけ大きな規模と生産性の格差があれば、アメリカの農民は日本の農民に較べよほど金持ちであるはず。ところが意外や意外、一戸当たりの平均所 得では日米ほとんど互角。アメリカが414万円に対して日本は400万円弱。1ドル260円換算であり、それ以上の円高となると日本の農家の方が所得が上 になってしまう。アメリカでも兼業農家の比率は高いので兼業云々では説明できない。
  5. これは日本の農産物価格の高さと農家マージンの高さが原因。生産者価格の比較では玄米60キロ換算でアメリカが4400円に対し日本は1万 7000円で4倍近い。麦だったら6倍。肉牛だったら3倍。更に生産者利幅は、アメリカは平均18%だが日本は58%で3倍。日本の農家は、高いコストの 農産物に更に高いマージンを乗せて売っている。
  6. もちろん自然条件の差というものがあるが、それでもとても容認できるような差ではない。日本に於いても共同化などで規模拡大を図れば一挙に相当のコスト削減は可能である。いまの過保護農政の上にアグラをかいている意欲のない農民が離農させ農業人口がもと減らすべきである。
  7. 実を言うと、アメリカでも、60年代初期には農業の過剰人口と政府の過大な農業保護再生支出に悩んでいた。当時は農業がアメリカのアキレス腱で あった。そこで、米経済開発委員会(CEO)が「農業人口三割削減論」という政策を提出し、大論争になったが、結局その後の展開は、アメリカの農業人口は 三割以上減り、アメリカの農業は足腰が強くなった。

非常に考えさせられる話である。やるべきことは余りにも明かである。日本の農業人口のドラスティックな削減なしにして日本の農業の将来はない。

日 本の勤労者の所得は名目比較では米国の勤労者の所得を上回っている。しかし米国より異常に高い食料品価格のおかげで、実質所得は大きく米国を下回る。日本 の農家の所得は日本の勤労者所得より高い上に、食料はただである(地消地産)。まさに「いいとこ取り」だ。かくして世界でももっとも生産性の低い日本の 「駄農」の実質所得は世界で「断トツ」の高所得となる。それは、世界で有数の高生産性を誇る日本の都市勤労者が彼等に貢いでいるからであり、その結果、日 本の都市勤労者世帯の実質生活水準は先進国で一番低いものに押し下げられている。

やがて農村人口がだんだん減ってくるのであればそれでよいが、そうでもない。こういう安易な生活になれてしまい、都会に出て激烈な競争に身を晒そうとしないで農村に引きこもり農家の親にパラサイトする若年層の「農村オタク」が増えているのだ(ここ)。彼等は日本経済にとっての寄生虫でしかないが、環境とか自然保護とか食品の「安全(?)」とかの名目をでっち上げ、ナイーブな都市住民をだまくらかしている。もういい加減に、都市住民は彼等にだまされるのはやめにするべきではないか。

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立花 隆

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Posted: Sun - September 12, 2004 at 02:45 PM   Letter from Yochomachi   農業問題  Previous   Next   Comments (7)  

2004年9月5日日曜日

Le Monde / リンドバーグに隠し子がいた!


「翼よあれがパリの火だ」の英 雄リンドバーグは、奥さんで飛行作家のアン・モローとの間に6人の子宝に恵まれたが、さらに二人の女性との間で5人の隠し子がいた事が判明したとの報道。 おまけにその二人というのが姉妹同士というのだから、あきれます。

ルモンドのベルリン特派員の報 告です。
(さわり部分)
Charles Lindbergh n'avait pas six... mais onze enfants
LE MONDE | 04.09.03 | 13h11 Berlin de notre correspondant
Acclamé dans le monde entier pour avoir effectué, en mai 1927, aux commandes du Spirit-of-St-Louis, le premier vol transatlantique en solo et sans escale, Charles Lindbergh semble avoir cultivé d'autres talents que l'aviation. A en croire de récentes révélations, le pilote, qui a eu six enfants de son épouse légitime américaine, l'écrivain Anne Morrow, serait aussi le père secret de cinq autres enfants nés en Allemagne, dans les années 1950 et 1960, de deux jeunes femmes qui étaient... sœurs.

抄訳してみると、次の通り:
1927年に「スピリッツ・オブ・セントルイス」で初の大西洋横断に成功したリンドバーグは、飛行以外の別の才能をも 発達させていたらしい。正妻で作家のアン・モローとの間の6人のこどもたちに加え、ドイツで秘密に1950年代から60年代にかけて5人の子供を二人の女 性に産ませていたらしいのである。おまけに、この二人の女性は姉と妹の関係にあった。
これはドイツの新聞がすっぱ抜いた。子供たちは1974年にリンドバーグが死ぬまでこの事実を知らされておらず、母親 から自分が死ぬまでは誰にも言うなと言われていた。この母親は2001年に死亡。もう一人の女性(姉の方)はいま養老院におり79才。
リンドバーグ家は「ノー・コメント」を続けている。
これら5人のこどもたちは、従兄妹であり同時に兄妹でもある。

いやあ、参ったですね。英雄色を好むと言いますが、こ んなことはよほど勇敢でマメでないと出来ない。リンドバーグはやはり並の人じゃなかった。

いい男でもあった〔写真〕:






Posted: Fri - September 5, 2004 at 09:49 AM   Letter from Yochomachi   Le Monde(ルモンド抄訳)   Previous   Next   Comments  

「不動産業者・金融業者と化した偽装農民たちの宅地並み課税への抵抗」(立花隆)



先のエントリーで 本間正義教授が「行うべきは、ゾーニングや転用規制の強化で転用期待を排除し、地代が農業の生産性で決まるよう農地市場の機能を回復することである」と述 べられている。この件に関連し立花隆が『農協』で書いていることを引用したい。いまもまったく変わっていないように思うがどうか。

『農協』の第二章「東京にも農協がある=不動産業者・金融業者と化した偽装農民たちの宅地並み課税への抵抗」の中で立花隆はこういう:
東京には現在3万戸の農家があり、1万4000ヘクタールの耕地を耕している。(中略)しかしその生産は、三万戸の農家のうちごくごく一部によって担われている。(中略)まとももな農業経営をしている農家は全体のわずか3%強、約千戸しかない。

ほとんどの農家はどういう人達かというと、同じく立花隆の言葉を借りれば:
43 年の都市計画法で、市街化区域と調整区域の線引きが行われたとき、農民達は市街化区域に入るための猛運動を行った。本当に農業を続けたいと願っている農民 なら、当然、グリーンベルト地帯や調整区域に入ることを願うべきところであろう。要するに東京の農民達は(別に東京に限らず大都市近郊の農民達は)自分た ちの農地が永久農地となって、宅地として売れなくなるのも嫌だし、かといって宅地並みに課税されるのも嫌だというかなり身勝手な主張を臆面もなく続けてい るわけだ。

しかし立花はかりに宅地並み課税をしても農地放出は起きないだろうと見る。一部を駐車場にしさえすれば固定資産税なんか屁の河童だからだ。

立花は「日本農業の最大のガンは土地問題にあり、そのガン細胞が都市周辺の偽装農民の偽装農地である」と断じる。
大 部分の農民の土地は、戦後の農地解放で「耕すものにこそ所有の権利がある」という理由で、ただ同然の値段で手に入れたものであって、脱農業を計り「耕さざ るもの」となった農民には、この間の地価高騰による超過利潤が本来的に自己の所有に帰属すべきものだとは主張できないはずである。(中略)農地解放の精神 を忘れて、ただただ既得権益のエゴイスティックな保持だけしか考えない偽装農民たちと、その主張の代弁しか考えない農協組織という状況がいつまでも続いて いると、何れ農地開放に匹敵するような強権発動をもってしかこの矛盾を解決できないという声が社会一般の認識となるかも知れない。

と結ぶ。なんでも反対を押し切り強引に物事を進める才能のある小泉首相にこれを期待しても無理なのだろうか。こういうことで頑張って欲しかったんだけれど、彼の支持基盤が神奈川県の「近郊農家」だったら仕方がないか。

立花隆の本を再録:
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Posted: Sun - September 5, 2004 at 02:16 PM   Letter from Yochomachi   農業問題  Previous   Next   Comments (4)  

2004年9月2日木曜日

Le Monde : 俺らのカラシニコフ(AK47ライフル)を返せ!


笑ってしまった。アメリカが東 欧などで大量に買い集めた海賊版のカラシニコフ銃を新イラク軍に供与しているらしい。それを知った元祖カラシニコフの国ロシアが知的財産権を侵害されたと カンカンに怒っているとのこと。


Rendez-nous nos kalachnikovs ! 
LEMONDE.FR | 01.09.04 | 14h28 

俺らのカラシニコフを返せ!

Ce fusil mitrailleur est tellement répandu à travers le monde qu'on oublierait que sa fabrication est soumise à une licence détenue par la Russie. Et à force d'être accusée de pirater différents types de droits de propriété intellectuelle, notamment par les Etats-Unis, la Russie fait volte-face et accuse les Américains de piraterie à son tour. 

この突撃銃は余りにも広く世界中に広まっているため、 我々はえてしてこれがロシアのライセンスによってはじめて製造されるものであることを忘れがちである。ロシアは数々のアメリカの知的財産権を侵害している といつも非難されているが、今回は立場を変えてロシアはアメリカが彼等の知的財産権を侵害したと非難している。

A propos du piratage, le contentieux diplomatique entre les deux pays est récurrent. Il est courant de trouver sur les marchés des villes russes des copies de films ou de logiciels américains récents. Par exemple, sur les étalages d'Ijevsk, ville industrielle proche de l'Oural, on trouvait des copies du Roi Arthur, Troie ou Spiderman 2 dès le mois de juillet pour 3 euros. Photoshop CS, un programme vendu plus de 1 000 euros en magasin, y était disponible pour 2,50 euros. A Washington, on estime à un milliard de dollars par an le manque à gagner dû au piratage russe, ce qu'on n'omet pas de leur rappeler régulièrement.

この知的財産権の海賊行為は両国間でしょちゅう外交問 題となる。ロシアの町ではロシア製の海賊版映画やソフトウエアがあふれている。「アーサー王」「トロイ」「スパイダーマン2」などが3ユーロで売られてい る。画像ソフトのフォトショップは普通定価は1000ユーロだが、2.5ユーロで買える。ワシントンではこのことで年間10億ドルぐらいの損失を被ってい ると見ており、しょちゅう問題となっている。

Mais la Russie riposte. Le New York Times révèle que Moscou accuse à son tour les Etats-Unis de violer les droits de propriété intellectuelle d'un produit russe. Et il ne s'agit pas de films ni de logiciels, mais de la célèbre mitraillette kalachnikov. "Nous voyons beaucoup de produits portant le nom k'alachnikov', mon nom, qui sont achetés dans d'autres pays que la Russie", explique dans les colonnes du quotidien Mikhaïl Kalachnikov, l'inventeur officiel du fusil.

でも、ロシアも負けてはいない。ニューヨークタイムズ によればロシアはこんどは自分の番だとばかりアメリカをロシア製品の知的財産権の侵害で非難しているという。映画とかソフトウエアではない。あの有名なカ ラシニコフ突撃銃だ。「ロシア以外で製造された非常に多くの小銃が私の名前“カラシニコフ”をつけています」とこの突撃銃の発明者カラシニコフ氏は言う。

Selon le journal, depuis la chute de Saddam Hussein en Irak et des talibans en Afghanistan, les Etats-Unis ont acheté ou arrangé le transfert de milliers d'imitations de fusils kalachnikovs, couramment appelés AK-47, afin d'équiper les nouvelles forces de sécurité afghanes et irakiennes. Ces fusils seraient fabriqués hors licence par les anciens pays du bloc soviétique. Les autorités russes ont donc rappelé qu'aucun autre pays n'avait de licence valide pour fabriquer l'AK-47 et ses nombreux dérivés. "Pour faire la guerre aux terroristes, Washington a encouragé la violation des droits de propriété intellectuelle. Cela cause à la Russie un grave préjudice financier et porte atteinte au nom 'kalachnikov'", ont-elles déclaré, ajoutant qu'il serait souhaitable de passer les commandes directement à la Russie. Les Américains ne s'en défendent d'ailleurs pas, puisqu'ils ont confirmé que des kalachnikovs non russes ont bien été acheminés en Afghanistan et en Irak avec leurs aide. Ils ont même précisé que, dans certains cas, ces fusils étaient transférés via une commande internationale et dans d'autres, via des dons de pays amis, comme marque de coopération avec l'administration Bush et comme contribution à l'effort de reconstruction.

報道によると、サダム・フセインやタリバンの崩壊後の イラクやアフガニスタンで、米国は何千というカラシニコフ(AK47)ライフルを買い付けて新しい現地治安部隊に供与したとのこと。これらのカラシニコフ は旧ソヴィエット圏の国々で違法に製造されたもののようだ。ロシア当局はロシア以外の国はカラシニコフを製造するライセンスを今は持っていないという。 「テロとの戦争を遂行するために米国はロシアの知的財産権を侵害している。おかげで金銭的な損害を被った。カラシニコフが欲しいならロシアに直接注文して くれなければ困る」とロシア側は云う。アメリカ側もロシア以外で製造されたカラシニコフを援助としてアフガニスタンやイラクに出していることは認めてい る。直接注文したものもあるし、ブッシュへの協力として友好国から供与されたものもある。

Officiellement, Washington déclare œuvrer pour remédier à ce problème : "Nous avons pris note du fait qu'il y a d'importantes questions à résoudre concernant le respect de la production, les droits de propriété intellectuelle et les conditions d'exportation de ces fusils, et il est important que nous renforcions les contrôles dans ces domaines", a indiqué un membre du département d'Etat. Mais des représentants de Rosoboronexport et Izhmash, les sociétés russes détentrices des licences, ont indiqué que des transferts de kalachnikovs fabriqués dans les usines roumaines, bulgares et hongroises ont continué malgré les protestations russes... Heureusement, la guerre froide est finie !

ワシントン政府は公式にはこの問題を解決するように作 業をしていると声明を出している。「知的財産権の問題がからんでいることは承知しており、これを解決することはとても重要な課題である」と米国政府関係者 は云う。しかし、ライセンスを保有しているロシアの武器製造会社の代表によれば、ロシアが抗議しているに拘わらずルーマニアとかハンガリーではまだ海賊生 産が続けられていると。冷戦が終わっていてよかったね。

Jean Fiawoumo 


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Posted: Thu - September 2, 2004 at 03:49 PM   Letter from Yochomachi   Le Monde(ルモンド抄訳)   Previous   Next   Comments (2)  

2004年9月1日水曜日

〔再録〕「農は文化と環境を育む」(富山和子)全農の一面広告……噴飯ものだ


旧HPからの移行掲載:


「農は文化と環境を育む」(富山和子)全農の一面広告……噴飯ものだ



息子が朝日新聞を持ってきた。コメについて書いてあるという。見てみると全農の広告だ。富山和子という人が書いているが、全農の立場が書かれていると見て差し支えないだろう。大きな議論のすり替えがある。


富山和子氏は言う:
  1. コメは栄養価が高い理想の食品である。
  2. 水田はダムである。水資源である
  3. 稲作は自然保護である。
  4. コメ作りを止めれば、日本人の勤勉性も失われ、モノづくり文化も衰退する。
  5. 日本の食料自給率が低いのは食料を輸入するからだ。
  6. 食料輸入は他国を収奪していることだ。
  7. 税金を投入して芸術を保護するように水田を守れ。
  8. 地産地消をするために国産品を買え。
  9. 都市住民は誰に養われているか考えて謙虚になれ。
  10. コメは日本の文化である。

典型的な「ごちゃ混ぜ議論」である。「江戸のカタキを長崎で」というか「ああいえば上祐」というか、関係ない事柄をたくさん持ち出して、焦点を拡散させる議論だ。以前紹介した農水省元ガット室長の論文「消費者負担型の農政こそが諸悪の根元だ」(山下一仁)」 と読み比べれば、この主張がいかに「ムード」だけに頼ったものかわかるだろう。

例えば:
  1. 「コ メは理想の食品」と云うが、精白米のことではなく玄米のことだろう。誰も玄米なぞ食べていない。また仮にそうだとしても、その「理想の食品」は海外でも生 産されているのであり、日本の特産物では決してない。いま議論されているのは、コメという一つの商品を日本の消費者にいかに安く安定的に多量に供給できる かであり、コメの栄養価とは関係ない問題だ。
  2. 水田はダムであるという。たしかにそういう一面もあるが問題の本質ではない。ダムが必要なら今の有休水田用地を溜池として活用することでも十分可 能だ。そのコスト比較はされたのだろうか。また水田はダムであると同時に多量の水資源を消費する水食い虫でもあるのだ。都市住民に必要な水は農業用の水配 分がなければ充分にあるし渇水問題もない。また、いま議論されているのは水田の生産性をいかにして高めるかという問題である。生産性の高い水田であっても 同じダム効果は現在の水田と同じである以上、農業構造改革が水田のダム効果を消滅させるという議論はまったく見当はずれである。全農は問題をすり替えてい る。
  3. 稲作は自然保護だとおっしゃるが、それは稲作を前提とする自然だろう。縄文時代には水田はなかった。でも自然は今以上にあった。明治神宮の極相林は、スギ花粉をまき散らすいい加減な農村の植林以上に余程自然のかたちを残している。
  4. コメ作りを止めれば日本人の勤勉性が無くなると云うが、噴飯ものだ。今一番勤勉に働いている人達は都会のサラリーマンや工場労働者だろう。農家の仕事は兼業で充分こなせるほどの軽い労働作業となっている。農家が勤勉だなんて、片腹痛い。
  5. 日本の食料自給率が低いのは輸入するからだとおっしゃるが、国内で充分供給できないから輸入するのである。話が逆だ。国内農家は日本人が消費する食糧を絶対量で供給できていないではないか。生産性の悪い国内農家の怠慢を外国のせいにしている。
  6. 食料輸入は外国の資源の収奪だと云うが、だったら日本国内の収奪は良いのか。あんたらは収奪されたいのか。そうではあるまい。おまけにその外国は日本に「収奪」されたがって、ぜひ買ってくれと言ってきている。
  7. 水田は芸術だと云うが、だったら稲作名人を人間国宝に十人も指名すればそれで済むことだ。日本では古来から農業は一番重要な「産業」であった。江 戸時代に誰も農業は芸術だなんて云わなかったことを思い出せ。みな必死で生産性の向上に取り組んだ。もっと農業の原点を勉強しろ!
  8. 「地産地消」と云うが、どの範囲を考えているのだ。或る場合は、村単位であったり、或る場合は県単位であったりするが、結局は国単位ということに 持っていくのが全農の目的のようだ。そういういい加減な定義なら、更にもっと広げて、二国間FTA単位であっても良いし、アジア単位であっても良いし、さ らには地球単位に広げても、もちろん「地産地消」だ。アホなことは云うんでない。もし自分の村だけで自分のためだけに農作物を生産して消費することを考え ているなら(これは都市住民への脅しとしてよく使われる。文句云うならあんたらに作物を供給しないよと言うやつ)、それは農地を保有する既得権者が自分の 農地を家庭菜園として使っていることと同じだ。だったら農地にもちゃんと宅地並みの固定資産税を払え。
  9. 都市住民は誰に養われているかを知って謙虚になれとおっしゃるが、我々の税金と人為的な高価格による過剰利潤で養われているのは、農民だろうが。 農村こそ謙虚になって欲しい。またそれをいうなら、都市住民は食料輸出国の農民に対しても同じ程度に謙虚にならなければいけない。彼等は農作物を都市住民 に供給していると云う意味で、あんたらとまったく同等である。
  10. 「コメは日本の文化である」という言葉はどっかで聞いた。森鴎外がこれを言って、兵隊にコメばかり食わせて数千人の陸軍兵士を脚気で死なせてし まった。典型的な思いこみにより犯した間違いである。たかが一つの商品に過ぎない食い物に過大な思い入れをすることは、卑しいし、滑稽だ。

こ ういう揚げ足をとるのが目的で書いたのではない。要はこの全農の主張は支離滅裂であるということを述べたかった。解決するべき問題は農業の生産性の向上で ある。これは何度も書いたが、消費者負担型農政と農業への新規参入を阻む閉鎖的な制度が一番のガンとなっている。農地法は直ぐに改正されるべきである。農 地の所有は、既得権者がそれを独占するいまの制度を改め、日本国民全体に開放されるべきである。


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Posted: Wed - September 1, 2004 at 03:00 PM   Letter from Yochomachi   農業問題   Previous  Next   Comments  

2004年8月27日金曜日

Le Monde : 『星の王子さま』と芸術の女神……「薔薇」とは誰のことか、56年経ってやっと判明した!


旧HPより。この記事は保存版です:

Le Monde : 『星の王子さま』と芸術の女神……「薔薇」とは誰のことか、56年経ってやっと判明した!



サン=テグジュペリの『星の王 子さま』にでてくる薔薇は誰がモデルなのだろう。余り評判が良くなかった妻のコンスエロであろうか、他の女性だったのか、はたまたナチスに抵抗を続ける祖 国フランスを想定していたのであろうか。長らく文学者を悩ませてきたこの問題にようやく解答が出たとルモンドは報じる。解答を先に云いますと、やっぱり奥 さんのコンスエロだったのです。な〜んだと云うところですが、この事実が判明するのに56年もかかったという「そのへんの事情」とコンスエロという女性の 性格が興味深い。ちょっと感動的でもある。


La muse et le Petit Prince
LE MONDE | 26.08.04 | 13h11 

芸術の女神ミューズと『星の王子さ ま』

La "rose", c'était elle, bien sûr, avec sa coquetterie, sa beauté vaniteuse, ses épines, sa toux. Pourtant, il a fallu cinquante-six ans pour que le rôle de Consuelo de Saint-Exupéry soit reconnu.

「薔薇」とはもちろん彼女のことで あった。コケティッシュで、自惚れやさんの美人で、棘があり、咳をする。しかしこのコンスエロ・ド・サン=テクジュペリの役割が明らかにされるまでには 56年の歳月が必要であった。

Sans doute naît-on muse, comme d'autres naissent comédiens, religieux ou artistes. Il faut des prédispositions.

疑いなく、ミューズは生まれつきのものである。生まれ つきコメディアンであるとか宗教家であるとか芸術家であるとかと同じだ。資質が必要なのだ。

Petite fille, Consuelo Suncin, enchantait déjà sa compagne, Claudia Lars, la plus grande poétesse salvadorienne, par son "magnétisme" et sa voix "chargée de féerie".  Plus tard, son imagination, son charme, son visage de madone subjugueront des écrivains tels Maeterlinck, Maurice Sachs ou Denis de Rougemont, comme les surréalistes Dali, Ernst, Miro, Breton entre autres.

コンスエロ・スーシンは少女時代にすでにサルバドール の最大の詩人クラウディア・ラルスをして「妖精のような人を引きつける女性」と言わしめた。その後も彼女の想像力と魅力と美貌はメーテルリンクやモーリ ス・サッシュやダリ、ミロ、ブルトン等の芸術家を虜にした。

Ce ne sont qu'anecdotes. De Consuelo Suncin, il ne resterait rien, pas même une ombre, si elle n'avait ensorcelé le plus casse-cou, le plus doué des auteurs de son temps, Antoine de Saint-Exupéry, et inspiré un conte devenu l'ouvrage le plus vendu après la Bible : Le Petit Prince.

でも、それは逸話にしかすぎない。もし彼女が時代の最 高の作家であったアントワーヌ・ド・サン=テクジュペリと出会い、彼の作品『星の王子さま』のインスピレーションを与えなかったなら、彼女のことはどこに も書き残されなかったであろう。

Elle est la rose, bien sûr, avec sa coquetterie, sa vanité un peu ombrageuse, ses pauvres mensonges, ses épines, sa toux - elle était asthmatique. Mais aussi l'âme du livre. Il suffit de lire entre les lignes, son empreinte est partout. Dans les volcans qui encombrent la minuscule planète du Petit Prince, comme le Salvador, où elle a grandi ; dans la sauvagerie feinte du renard ; dans le serpent, énigmatique et dangereux. Et même dans la frêle silhouette de l'enfant qui dit de si belles histoires.

もちろん彼女が「薔薇」である。コケティッシュで自惚 れや、怒りっぽくって、嘘つきで、棘があって、咳をする(彼女はぜんそく持ちだった)。しかし同時に本の魂であった。『星の王子さま』を読むと行間に彼女 のことがいたるところに出てくる。王子さまの星にある火山は彼女が育ったサルバドールにあるものだ。狐にも蛇にも。主人公の子供のきしゃな体つきにもそれ があらわれている。

Consuelo venait de se réconcilier avec Saint-Ex quand il écrivit ce conte, en 1942, exilé dans une grosse maison paisible qu'elle avait dénichée non loin de New York. Et leurs amours conflictuelles sont au cœur du récit. Comme le Petit Prince revient vers sa fleur après avoir vu les autres roses et compris qu'elle est "unique au monde", Saint-Ex était revenu, après moult incartades. Comme son héros, il était incapable d'oublier cette femme-fleur, capricieuse et fragile, qui l'exaspérait mais l'attendrissait et qu'il aimera jusqu'à la fin : "Tu deviens responsable pour toujours de ce que tu as apprivoisé. Tu es responsable de ta rose..."

サン=テックが1942年に『星の王子さま』を書いた とき、コンスエロとサン=テクジュペリは仲直りをしたばかりだった。ニューヨークに疎開していた。愛のいざこざがこの本の中心テーマである。星の王子さま は他の薔薇を見た後、あの「薔薇」が彼にとって「世界でただ一つのもの」であったと理解する。サン=テックもそうであった。「手なずけたものには、ずっと 責任を感じるようになる。あの薔薇に責任があるのだ」である。

Oui, Consuelo était la rose, l'âme et le cœur du Petit Prince, mais le plus étonnant, dans cette histoire, est qu'on ne l'ait pas compris d'emblée. Il a fallu beaucoup d'études, d'articles, de temps surtout, pour qu'elle figure à sa juste place dans la vie de l'écrivain.

しかり、コンスエロこそが薔薇であった。しかしもっと 驚くことはこれが直ぐにはわからなかったことだ。多くの研究と、論文、それに年月を経てこれがはじめてわかったことである。

Pendantplus d'un demi siècle après la disparition du héros en 1944, l'hagiographie mentionnait tout juste l'existence d'une épouse, dont l'influence était totalement occultée. En 1979, Consuelo succomba à une crise d'asthme plus violente que les autres dans l'indifférence la plus totale. Il fallut le regain d'intérêt provoqué par le centenaire de la naissance de Saint-Ex, en 2000, pour que les chercheurs découvrent l'existence de la vraie rose, cinquante-six ans après...

サン=テクジュペリが1944年に死んでからほぼ半世 紀のあいだ、ずっと、伝記は彼に妻がいたとだけ簡単に記するのみで、その妻の影響についてはまったく無視してきた。妻コンスエロは1979年にぜんそくで 死んだが、まったく無視されてきた。やっと2000年になって、サン=テックの生誕100周年事業の一環としてなされた研究で、やっとこの本当の「薔薇」 の存在が発見されたのである。56年経ってからのことである。

Dans le livre qu'il lui a consacré, Paul Webster explique cet incroyable "oubli": alors qu'il préparait son ouvrage, on lui proposa de rencontrer Pierre Chevrier, auteur de la première biographie de Saint-Ex en 1949 qui, depuis, faisait autorité. Il ne consacrait que deux lignes à son mariage. "Le malentendu fut levé quand Pierre Chevrier arriva en la personne d'une élégante dame de 80 ans", écrit Webster. Cette dame, précise-t-il, était Nelly de Vogüé, qui"avait apporté à Antoine une assistance financière et professionnelle ainsi qu'un réconfort affectif" pendant ses dix dernières années. En un mot la rivale, haïe, de Consuelo. Celle qui, avec la bénédiction de la famille et des milieux littéraires, avait détourné l'écrivain d'une femme jugée indigne de lui, rejetée dès le départ, puis tout bonnement gommée.

ポール・ウエブスターはこの信じられないような「見落 とし」をこう説明する。生誕100周年研究のために昔(1949)のサン=テックの伝記作家で権威のピエール・シュヴリエを調べたのだが(彼は伝記の中で コンスエロについては二行しか書いていない)、彼はサン=テックの別の女友達でコンスエロのことを悪く思っている女性(ネリー)に影響され、コンスエロを 始めから無視してしまったのであると分析である。

Car Antoine était non seulement héros mais comte, issu d'un monde aristocratique fermé, le plus rétrograde qui soit, où son mariage avait fait tache. Sa sœur, Simone, traitait son épouse de "garce", Nelly d'"oiseau de proie". Seule Marie de Saint-Exupéry, qui connaissait son fils mieux que personne, avait compris leur attachement : "La vie commune - était - difficile, expliquera-t-elle en 1953. Cependant, Antoine l'a aimée et sa sollicitude l'a entourée jusqu'à sa fin. Le Petit Prince en est l'émouvant témoignage."

アントワーヌ・サン=テックは英雄であるとともに伯爵 家に生まれた貴族であり、一族からはサン=テックとコンスエロとの結婚は汚点として見なされていた。サン=テックの妹は「コンスエロはあばずれ女で、ネ リーは猛禽だ」と悪口。唯一サン=テックの母親だけは息子の気持ちを理解しており「二人の間にはいろいろあったが、息子は最後までコンスエロを愛してい た。『星の王子さま』は息子の愛の感動的な証言である」と1953年にいっている。

Pour tous les autres, Consuelo restait une intruse, une étrangère, suspecte, exotique. Elle ne faisait d'ailleurs rien pour s'en cacher. Au contraire, elle cultivait sa différence, sa beauté un peu androgyne, son tempérament "volcanique", son accent roucoulant, consciente, peut-être, que cet exotisme était la source de l'amour d'Antoine.

母親以外の親族にとっては、コンスエロは招かざる客で あり、外国人であり、胡散臭く、エキゾティックな人間でしかなかった。コンスエロはそういうところを隠そうともしなかった。反対にその違いを強調した。男 性的な美貌、火山のようなはげしい気性、切なく甘いアクセント、そういうエキゾチズムがアントワーヌを魅了したのだろう。

Attiré par l'ailleurs, le lointain, l'aventure, Saint-Ex cherchait depuis l'enfance à échapper aux limites de son milieu. Il avait multiplié les défis, comme l'aviation, cultivé les amitiés les plus improbables - son meilleur ami, Léon Werth, était communiste-, et tenté d'apprivoiser des animaux sauvages : renard des sables, gazelle, caméléon, bébé phoque, puma, lionceau, qu'il embarquait parfois dans son avion, au grand dam de ses mécaniciens - l'un d'eux finira à l'hôpital, après l'épisode du lion.

幼いときからサン=テックは異国に憧れた。冒険を好 み、自分の環境から離脱しようとした。いろんな挑戦をやったが飛行機もその一つだ。交友関係も独特で一番の親友は共産主義者だった。野獣の調教が好きで、 狐やガゼルやカメレオンやピューマなどを飛行機に積み込んでメカニックに大迷惑をかけた(飛行機に乗せたライオンのおかげでメカニック一人がかみ殺され た)。

Quand il la rencontre, en 1930, Consuelo l'ensorcelle au même titre. "Plume d'or, vous êtes la plus adorable femme du monde, une fée, lui écrit-il, il faut être un quetzal - oiseau sacré - pour vous comprendre bien. Pour s'émerveiller de cette petite âme sauvage."

二人があったのは1930年だったが、サン=テックは コンスエロのそういうところに惹かれた。「黄金の羽根だ。貴女は世界で一番素晴らしい。まるで妖精だ。貴女を理解しその野生の美を感嘆するにはケッツアル (アステカの聖なる鳥)でなければならない」と彼は手紙を書いた。

Elle n'a pourtant rien d'une sauvageonne, cette jeune veuve élégante et volubile, coqueluche de la bohème chic. Elle est née en 1901 dans l'une des familles les plus riches du Salvador. Son père, colonel de réserve, était planteur de café à Armenia, une petite ville. N'étaient les tremblements de terre et les révolutions endémiques, elle a eu une enfance paisible, et reçu une excellente éducation, chez les pères.

でもコンスエロは野生児ではなかった。上品でおしゃべ りな寡婦でシックなボヘミアン達の人気者だった。彼女は1901年にサルバドールでも有数の金持ちの家に生まれた。父親はコーヒー園をやっており、地震や 革命騒ぎの他は、静かな幼少期を送り、最高の教育を受けた。

"Un jour, je serai reine dans un pays lointain où j'aurai des robes d'or et d'argent, des bagues et des colliers avec des pierres merveilleuses", racontait-elle à ses comparses, éblouies par sa beauté délicate, atypique dans ce monde métissé.

「いつの日か、私は遠い国の女王になって、金や銀のド レスや宝石の指輪や首飾りをいっぱいつける」と彼女は下女達に漏らしたことがある。混血社会の中で飛び抜けて目立った上品な美人であった。

En attendant, elle se démène pour sortir de son village et obtient une bourse d'études aux Etats-Unis. Partie à 19 ans à San Francisco, elle en revient à 22, déjà veuve. Sur ce premier mariage avec un jeune officier mexicain décédé dans un accident, Consuelo ne s'appesantira jamais. En bonne conteuse, elle a toujours enjolivé la réalité. Ricardo Cardenas était-il officier ou simple employé de bureau ? Etait-il seulement mort lorsqu'elle l'a quitté ?

19歳からはアメリカのサンフランシスコで教育を受け 22歳に帰国したがすでに寡婦であった。最初のメキシコ人の夫は事故で死んでしまったのだ。この事故についてはコンスエロは突っ込んで語ろうとしない。彼 女は事実を脚色して語る傾向があった。最初の夫の職業も死因もよく分からない。

En tout cas, il était mexicain, et, forte de sa nouvelle nationalité, Consuelo s'envole bien vite pour la Mecque culturelle de l'Amérique centrale. A l'université de Mexico commence sa vraie carrière d'égérie : elle tombe sous le charme de José Vasconcelos, héros de la jeunesse progressiste. Homme politique et écrivain, il est quadragénaire, marié et père de deux enfants. Sa liaison passionnée avec cette femme "folle, unique et pleine de paradoxes" nourrira une série de nouvelles où Consuelo apparaît sous le jour peu favorable d'un "crotale" aux pouvoirs quasi surnaturels.

でも夫がメキシコ人であったことで、コンスエロはすぐ さま中米の文化的なメッカであるメキシコ大学で政治的な影響力を発揮する女性に変身する。メキシコの英雄で進歩的な政治家で作家であったホセ・バスコンセ ロスと関係を持つ。バスコンセロスは彼女を超自然的な毒蛇のようなキャラクターで登場させる小説をいくつも書いた。

C'est que le maître est rancunier. Et la belle, indocile. En 1925, elle l'a rejoint à Paris, mais s'est vite lassée de sa tutelle égocentrique - d'autant qu'il ne manifeste aucune intention de quitter son épouse et la cantonne dans la coulisse. Surtout, elle a rencontré, au cours d'un bal masqué, Enrique Gomez Carrillo, consul d'Argentine.

でも彼は執念深く、彼女は従順じゃない。1925年に パリに行くが、彼女は自由奔放に行動し、ある仮面舞踏会でアルゼンチンの領事であるエンリケ・ゴメス・カリージョに会う。

Ecrivain, journaliste doté d'une coquette fortune et d'un physique de beau ténébreux, Gomez Carrillo a flirté avec Oscar Wilde, séduit Mata Hari et compte parmi ses amis Maurice Maeterlinck, Gabriele D'Annunzio, Picasso, Dali, Miro, etc. A 53 ans, c'est un homme d'expérience. Pourtant, au premier regard, il succombe. Ses démêlés vaudevillesques avec Vasconcelos, qui ne veut pas lâcher prise, égaient le tout-Montparnasse. Quelques semaines plus tard, Consuelo l'épouse, réalisant ses rêves d'enfance.

彼は作家でジャーナリスト、オスカー・ワイルドとも交 流があり、メーテルリンク、ダリ、ピカソ、ミロなどと付き合いしている53歳の男。彼等はモンパルナスの人気者となり、数週間後に結婚。コンスエロは小さ かったときの夢を実現させた。

Partagée entre la capitale des Années folles et sa somptueuse villa El Mirador, à Nice, elle a des robes, des bijoux ; elle apprend la sculpture, s'entiche de l'art déco, et du surréalisme. Le rêve continue même après la mort brutale de Gomez Carrillo, en 1927, qui lui lègue tous ses biens. Consuelo, à 26 ans, devient la veuve la plus fêtée de Paris.

パリとニースを掛け持ちしながら、ドレスと宝石に包ま れ、彫刻を習い、アールデコやスールレアリズムに明け暮れる生活だったが、ゴメス・カリージョは1927年に急逝。コンスエロは26歳にして再び寡婦とな る。パリで一番陽気な寡婦だ。

C'est cette jeune femme gâtée qu'Antoine de Saint-Exupéry rencontre, en 1930, à Buenos Aires. Séduit au premier regard, il l'attire dans son avion et dit : "Embrassez-moi ou je nous précipite dans la mer." Elle cède, bien sûr, mais, quand il lui demande sa main, elle hésite. Antoine lui plaît, bien qu'il l'impressionne par sa carrure - il a une bonne tête de plus qu'elle. Mais il est aviateur, tête brûlée, et n'a publié qu'un livre, Courrier sud, qui n'a pas remué les foules. Surtout, il se révèle très possessif : "Il était le plus adorable des chevaliers servants, mais aussi le plus tyrannique, racontera-t-elle. Dès qu'il se montrait, je devais abandonner tout." Un résumé de leurs problèmes futurs.

この甘やかされた若い女性がアントワーヌ・ド・サン= テクジュペリに出会うのは1930年ブエノスアイレスでのこと。彼女に一目惚れしたサン=テックは彼女を飛行機に乗せて「キスしてください、さもなければ 飛行機を海に真っ逆さまに墜落させます」と云った。もちろん彼女は承諾。でも結婚してくれと云われると、彼女は迷った。アントワーヌは体格が良く好感が持 てたが、彼は飛行士で冒険好きで、まだ『南方郵便機』を出版していなかった。一番の問題は所有欲が強かったこと。「彼は最高の仕えてくれる騎士だけれど、 同時に最高の独裁者だわ」と彼女は語った。「もしそれが出てくるようならお仕舞いにしなければいけないわ」とも。将来を予見するような発言だった。

Car Consuelo a pris goût à l'indépendance. Femme libérée, de tempérament bohème, elle fume, conduit - fort mal -, boit de l'alcool - un peu trop -, sort, sculpte, voyage. Elle ne sera jamais l'épouse docile qu'attend Antoine, marqué par le modèle maternel. Mais une bonne muse n'est pas forcément la femme idéale. Il s'ennuyait. Consuelo, avec son exubérance un peu tapageuse, l'amuse, le provoque, le stimule. Pour la décider, il lui offre, outre un ouistiti, les quatre-vingts pages de son futur roman, Vol de nuit. Rien ne pourrait lui plaire davantage.

コンスエロは独立心が強く、自由女性で、ボヘミアンの 性格もあり、煙草を吸い、ひどく乱暴な運転をし、大酒を呑み、出歩くのが大好き。家庭におさまるような主婦では決してなかった。でも芸術心をかき立てる女 神としては最高だった。彼女を決心させるために、サン=テックはとっておきの手段として『夜間飛行』の最初の80ページの原稿を彼女に見せた。

L'ami Maeterlinck, consulté, est formel : "Ce garçon deviendra le plus grand écrivain français."Elle épouse Saint-Exupéry, le 22 avril 1931, sept mois après leur rencontre, et l'enchaîne aussitôt à sa table de travail, dans le cadre magnifique d'El Mirador. Vol de nuit, comme, plus tard, Le Petit Prince, témoigne de l'ambiance créative que Consuelo a l'art d'entretenir autour d'Antoine. Elle lui prépare ses plats préférés, le distrait, le charme, l'écoute aussi au milieu de la nuit lire ses derniers paragraphes.

彼女はそれを友人であるメーテルリンクに読んでもらっ て意見を聞いた。「この青年は将来フランス最大の作家となる」というご託宣。それで彼女は結婚することにした。1931年4月22日、知り合ってから7ヶ 月目のことだ。すぐさまサン=テックは『夜間飛行』の執筆を進める。もっとのちには『星の王子さま』。コンスエロが彼の創造力をかき立てた。真夜中に彼は 書いたばかりの文章をコンスエロに読み聞かせることもした。

Le conseille-t-elle ? En tout cas les deux livres sont écrits en un temps record pour un auteur d'ordinaire laborieux, et connaîtront la plus longue carrière. Ces quelques semaines seront pour Consuelo "les jours les plus fous et les plus beaux" de sa vie.

彼女は助言をしたのだろうか? それはともかく、この 二つの本は、普通の速書作家としても、記録的な短期間で書き上げられていることは事実である。この数週間は人生でもっともキチガイじみて美しい日々だった とコンスエロは語る。

A Paris, les désillusions commencent aussitôt, nourries, paradoxalement, par le succès phénoménal de Vol de nuit. Antoine est salué comme un génie, et les "mignonnes", comme dit Consuelo, se bousculent à ses pieds. Délaissée, elle reprend ses habitudes, sort, s'étourdit, hante les vernissages. L'argent lui brûle les doigts. Antoine n'est pas en reste. Ils sont également anticonformistes, désordonnés, distraits, également angoissés et immatures. Mais pour le reste, tout les sépare - l'origine, la langue, la stérilité de Consuelo.

『夜間飛行』がパリで大成功をおさめると、直ぐに幻滅 がやってきた。サン=テックは天才だともてはやされ、お金も入ったことで有頂天。いい加減な生活ぶりはあいかわらず。

Très vite, les difficultés matérielles s'accumulent. Nelly, dès 1934, finance et console l'auteur. Consuelo en souffre. Lui rend-elle la pareille ? On le dit. Pourtant, Maurice Sachs, après un esclandre, rassure le mari jaloux : Consuelo est "une jeune femme un peu triste qui n'aime que vous". Denis de Rougemont, autre confident, affirmera la même chose.

直ぐに経済的に困ることになる。1934年以来、ネ リーという女性がサン=テックの金銭的精神的スポンサーになる。コンスエロはそれを嫌がった。コンスエロはアントワーヌを愛していたのか? 人はそうだと いう。モーリス・サックスはサン=テックに「コンスエロは悲しんでいる、君しか愛していない」と云った。デニス・ド・ルージュモンも同じことを言った。

Pendant treize ans, ils iront de crise en paroxysme, toujours entre deux appartements, deux hôtels, à Paris, à Casablanca, à New York, etc. A deux reprises, elle vole à son secours après de terribles accidents. Lui la protège, de loin. La débâcle, en 1939, les a séparés pour de bon. Depuis New York, il se débrouille pour la récupérer au fin fond du Luberon, où elle s'était réfugiée dans une communauté d'artistes, et utilise sans vergogne les relations vichystes de Nelly pour la faire passer aux Etats-Unis, où ils se réconcilient.

13年もの間、彼等二人は発作的にケンカを繰り返し、 パリ、カサブランカ、ニューヨークで別々のアパートに住んだ。でも、サン=テックの飛行機事故では彼女はすぐ救援に駆けつけた。離れていても彼のことを 守っていたのだ。でも1939年には正式に別居する。

Le jour de sa mort, le 31 juillet 1944, lorsque son avion s'abîme au fond de la Méditerranée, Antoine porte une gourmette gravée de leurs deux noms. Il faudra attendre cinquante-six ans pour qu'un pêcheur la retrouve. Cinquante-six ans aussi pour qu'un éditeur, en 2000, ose publier les mémoires de Consuelo. Ils s'intitulaient, bien sûr, Mémoires de la rose.

1944年7月31日、サン=テックの飛行機は地中海 に沈み彼は死んだ。地中海から引き上げられたサン=テックのブレスレットには二人の名前が刻まれていた。引き揚げるまでに56年の歳月を要した。やはり出 版社がコンスエロの回想録を出版するまでに56年の歳月を要した。そのコンスエロの回想録は、もちろん『薔薇の思い出』という題が付けられている。

Véronique Maurus



Bibliographie

Consuelo de Saint-Exupéry, la rose du petit prince, et Saint-Exupéry, vie et mort du petit prince, de Paul Webster, Le Félin, 1993 et 2002.

Mémoires de la rose, de Consuelo de Saint-Exupéry, Plon, 2000.

L'œuvre d'Antoine de Saint-Exupéry est publiée par Gallimard.
 ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 27.08.04

Posted: Fri - August 27, 2004 at 06:04 PM   Letter from Yochomachi   Le Monde(ルモンド抄訳)  Previous   Next   Comments (16)  

2004年8月26日木曜日

「消費者負担型の農政こそが諸悪の根元だ」(山下一仁)



今朝の日経の経済教室「直接支払いで農業改革」はお奨め。元農水省ガット室長で現在 経済産業研究所上席研究員の山下一仁氏が書かれている。日本の農業が抱える諸問題をこれだけ簡潔に言い表した論文は少ない。こういうまともな意見がなかな か現実の政策に反映されないのは、既得権者の抵抗のためだ。消費者は抵抗勢力が喧伝する「自然に優しい」とかの屁理屈に惑わされてはならない。

論点を整理すると以下の通り:
  1. 日本は国内価格を高くする消費者負担型の農業政策から転換し、負担と受益の関係が明確な直接支払い政策を導入し中核農家の規模拡大を急ぐべきである。
  2. WTO交渉で農産物関税の引き下げが不可避になるまで改革を先送りしていては農業が衰亡してしまう。
  3. さらに農業保護のために国内価格を高くする消費者負担型の政策は、非効率で(諸費用が差し引かれるので)農家所得の向上にはそれほど貢献せず、過剰生産を招き、肥料・農薬の多投入で環境に悪影響を与える。
  4. 国内市場で輸入品と競争できないものは海外市場でも競争できない。国内市場を守りながら輸出市場を開拓することは不可能だ。
  5. 日本が消費者負担型農政となったのは1960年代以降、農家所得向上のために、構造改革ではなく、米価引き上げを実施したからだ。そのため過剰と なった米の生産調整を実施などで、食料自給率は79%(60年)から40%(2002年)に減少。農家一戸当たりの平均耕地面積はほとんど増加しなかっ た。
  6. 兼業化が進み副業米単作農家の所得(02年792万円)は勤労者所得(646万円)を大きく上回ることになったが、食料供給の主体である主業農家は育たなかった。
  7. 構造改革を推進したフランスでは、自給率は99%(61年)から132%(2000年)へ、農場規模は17ヘクタール(60年)から42ヘクタール(2000年)に拡大し、穀物価格は国際相場を下回っている。
  8. 日本で農場の規模拡大が進まなかったのは、買い上げ米価は高いためだ。コストの高い農家でも農地を貸し出すより米を自作する方が得になるから、農 地は貸し出されず規模拡大が進まなかった。60キロ当たり16000円の米価が1800円低下させるだけで、副業農家からの農地貸し出しが始まる計算にな る。
  9. 関税全廃した場合でも、農家の所得保障の所要額は1.7兆円。現行の農業予算(約3兆円)内でまかなえる。
  10. 高米価政策で、米作農家は豊かになったが、農業は衰退した。このままでは日本の農業は内から崩壊する。

抵 抗勢力とは、言わずもがな、戦後の農地解放で既得権を勝ち取った農村である。改革に反対する農村の人達は、戦後の農地改革は誰のおかげで実現されたのか を、思い起こすべきだ。「革新官僚」(当時はアカといわれた)の改革のおかげだったではないか。改革の最大の受益者が今や改革に反対する最大の保守抵抗勢 力となっている。都市の消費者も、そろそろ自分がボラれていることに気づいて、ぜひこの「改革」(正常化といった方がいい)を応援しよう。


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Posted: Thu - August 26, 2004 at 02:53 PM   Letter from Yochomachi   農業問題  Previous   Next   Comments  

2004年8月12日木曜日

珊瑚集「返らぬむかし」ポオル・ヴヱルレヱン



ポール・ヴェルレーヌ (Paul Verlaine) の「返らぬむかし」(Never More) の荷風訳と原詩です。


『珊瑚集』ー原文対照と私 註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

原文        荷風訳
Never More     Paul Verlaine



Souvenir, souvenir, que me veux-tu ? L'automne
Faisait voler la grive à travers l'air atone,
Et le soleil dardait un rayon monotone
Sur le bois jaunissant où la bise détone.


Nous étions seul à seul et marchions en rêvant,
Elle et moi, les cheveux et la pensée au vent.
Soudain, tournant vers mois son regard émouvant :
<> fit sa voix d'or vivant,


Sa voix douce et sonore, au frais timbre angélique.
Un sourire discret lui donna la réplique,
Et je baisai sa main blanche, dévotement.


-- Ah ! les premières fleurs, qu'elles sont parfumées !
Et qu'il bruit avec un murmure charmant
Le premier <> qui sort de lèvres bien-aimées !


(Poèmes saturniens)
返 らぬむかし  ポオル・ヴヱルレヱン



ああ、遣瀬(やるせ)なき追憶の是非もなや。
衰え疲れし空に鵯(ひよどり)の飛ぶ秋、
風戦(そよ)ぎて黄ばみし林に、
ものうき光を日は投げし時なりき。

胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、
唯二人君と我とは夢み夢みて歩みけり。
閃く目容(まなざし)は突(つ)とわが方にそそがれて、
輝く黄金の聲は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。

打ちふるう鈴の音のごと爽に、聲は深く優しき聲よ。
この聲に答へしは心怯(おく)れし微笑にて、
われ真心の限り白き君が手に口付けぬ。

ああ、咲く初花の薫りはいかに。
優しく囁きに愛する人の口より漏るる
「然り」と頷付く初めての聲。ああ其の響はいかに


私註]

la grive (ツグミ)を荷風は「ヒヨドリ」と訳している。きっと当時は野鳥図鑑なんかなかったんでしょうね。

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

Posted: Thu - August 12, 2004 at 12:06 PM   Letter from Yochomachi   荷風「珊瑚集」私註   Previous   Next  Comments  

2004年8月3日火曜日

明治神宮が神社本庁から離脱……人のケンカほど面白いものはない!



今朝のニュース。本件フォローしていなかったが、この春以来もめていたようだ。きっかけは案内状のミスプリントだというのだから、次元が低い(?)。散人は本件の経済的側面にむしろ興味がある。本件に限らず「大釜の飯を食う」という結果平等主義はもうそろそろやめるべきだ。

経緯はニュース記事にあるように明治神宮の案内状の「両殿下」というミスタイプ。この責任の取り方を「進退伺い」とするか「始末書」で済ますかでもめた。神社本庁としては「進退伺い」を出させて宮司の首をすげ替え神社庁の威信を示すつもりだったのかしら。明治神宮はそんなの嫌だから「独立する!」となった。

そもそも神社本庁という団体は、戦後の新憲法の中で何とか明治の国家神道(平田神道)体制を守ろうとして作られたもの。「本庁」とたいそうな名前がついているものだから政府機関だと間違う人もいるようだが、そんなもんではない。実質的には裕福な収入がある神社からお金を取り上げて地方の神社に再配分する役目を担ってきた。自民党みたいなもんだね。

明治神宮としては、神宮球場の地主でもあるし、お正月には日本一の参拝客数だし、お金には不自由していない。巻き上げられる一方だったのでこの際いい機会だと思ったのではないか。大慌てしているのが神社庁で、うろたえぶりは滑稽なほど。

本件、単なる神道関係者の間の内輪もめの話ではあるが、時代を象徴しているように思える。イタリアなんかでは何十年も続いているが、結果平等主義に対する「持ちだし一方」の人たちの反発である。グローバル経済の時代になると、人々は国家というものよりもむしろ「町」に帰属意識を持つ。また国境は関係なく「同じ価値観の人たち」にむしろ親近感を覚える。その結果へんな国民国家政府が暴走するのが牽制される。日本もようやく、しかも神道というとても「伝統的」な分野で、こういう風土が出来つつあるのは、喜ばしいことである。


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Posted: Tue - August 3, 2004 at 10:27 AM   Letter from Yochomachi   My Clippings   Previous   Next  Comments (2)